SSブログ

チンクエチェントの「音楽娼婦」(その5「結論」) [その他]

前回から取り上げた,イタリアの1500年代の芸術的イヴェントの総称であるチンクエチェントの時期の,リュートを弾く美しい女性などの記事,Laura Ventura Nieto, An alluring sight of music: the musical ‘courtesan’ in the Cinquecento, Early Music, caac078, https://doi.org/10.1093/em/caac078 (Oxford University Press 2023)の翻訳抄録のつづきで5回目「結論」です。

EnriqueAutographSmall.png
<本文のつづき>
結論
この記事で取り上げる肖像画は美の象徴であり,リュートを含めることで音楽制作の官能性が加わる。これは,音を生成して知覚するために肉体を必要とする練習である。これらのベルと楽器の絵は,美しいハーモニーの象徴でもある[38]。 イタリアのチンクエチェントで生み出された他のどの理想化された美しさよりも,音楽制作の身体性は,レオーネ・エブレオ,トゥリア・ダラゴナ,その他の新プラトニック作家によって提唱された身体と魂の完全な結合に私たちを近づけることができる。アラゴナが説明したように:

【誠実な愛】は,愛する人を自分自身に変えたいという願いを込めて,自分自身を愛の対象に変えることを主な目標とする。…最愛の人と完全に同一化するために,精神的なそれに加えて肉体的合体を達成することが恋人の願いであるが,この肉体的連合は決して達成できず,人体の物理的融合は不可能であるため,お互いに恋に落ちても恋人は自分のこの切望を達成することは決してできず,したがって彼の欲求を決して満たすことはできない [39]。


傍観者にとって,音楽制作のこれらの魅力的な光景を熟考することは,最愛の人との完璧な結合の想像上の版を生み出すことができる。有名な娼婦ヴェロニカ・フランコがティントレットに彼女の肖像画を見たとき,次のように語った。「私が自分の肖像画を見たとき,それは絵なのか,それともナルキッソスのように自分自身に恋をさせるためではなく,悪魔の策略によって私の前に置かれた幽霊なのか,しばらくの間疑問に思いました。」 [40]

この時期に制作された多くの芸術と同様,女性の画像は意味を伝える手段として使用される。これらの音楽美女の初期の解釈は,彼らを「音楽娼婦」と表現することによって隠された意味を見落とす傾向があり,パトリシア・シモンズが「欲望と抑圧の逆説的な領域」と表現したものにこれらの女性たちの体を位置付けた[41]。「音楽娼婦」という比喩を超えて一歩踏み出すことによって,私は決して完全には知ることのできないイタリア人女性を取り巻く美と調和の文化を照らすための他の方法を提案しようとした。

Laura Ventura Nieto は独立の研究者である。彼女は2017 年にロンドン大学ロイヤルホロウェイ校で博士号を取得し,1520 年から 1650 年の間にイタリア半島で制作された音楽を制作する女性の描写に関する論文で,演劇性,パフォーマンス性,ジェンダー構築に特に重点を置いています。彼女の出版物には,カタリーナ・ヴァン・ヘメッセンによるヴァージナルを演奏する若い女性 (1528 年) の分析が含まれています (ルネッサンス音楽博物館,T. シェパードとV. ボルゲッティ編,Brepols 2023)。また,ラヴィニア・グアスカと娘のマルゲリータ・ランゴスカが 16 世紀末にトリノの宮廷で侍女として過ごした生活についての2つの章,現代の神秘主義と関連づけて17 世紀初頭の聖セシリアの描写について準備中です。 Footnotes(脚注;引用文献)
[38] The dual meanings of music in the Italian Renaissance bring another layer of connotations to this discussion. See P. Fortini Brown, ‘Seduction and spirituality: the ambiguous roles of music in Venetian art’, in The music room in early modern France and Italy: sound, space and object, ed. D. Howard and L. Moretti (Oxford, 2012), pp.19-36.

[39] ‘L’amore honesto … ha per suo fine principale il trasformarsi nella cosa amata, con disiderio che ella si trasformi in lui … Bene e uero, che disidirando lo amanto oltra questa unione spiritale anchora la union corporale per far si piu che puo un medesimo con la cosa amata, & no[n] si pote[n]do questa fare per lo no[n] esser posibile che i corpi penetrin l’un l’altro, egli no[n] si puo mai co[n]seguir questo suo disiderio, et cosi no[n] arriua mai al suo fine.’ Tullia d’Aragona, Dialogo della infinita d’amore, pp.50-1. English translation from Tullia d’Aragona, Dialogue on the infinity of love, p.90.

[40] ‘Quando ho ueduto il mio ritratto … io sono stata unpezzo in forse, se ei fosse pittura, o pur fantasima innanzi a me comparita per diabolico inganno; non mica per far mi innamorare di me stessa, come auuenne a Narcisso.’ Veronica Franco, Lettere familiari a diversi (Venice, 1580), p.50. English translation from Veronica Franco, ‘Familiar letters to various people (1580)’, in Poems and selected letters, ed. and trans. A. R. Jones and M. F. Rosenthal (Chicago, 1998), p.37.

[41] Simons, ‘Portraiture, portrayal, and idealization’, p.276.
(完)
nice!(22)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 22

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。