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決定論的事象と確率的事象について~身近な例にブレークダウンして~ [雑感]

前回,決定論的事象と確率的事象について書きました。一言で言えば「宇宙は決定論的事象と確率的事象の曼荼羅」であると。

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今回は,もう少し身近な例にブレークダウンして,具体的な話を書いてみたいと思います。

「希望的観測」というものがあります。
「こうあって欲しい」という願望が,冷静に見る目を曇らせてしまいます。

「決定論的事象と確率的事象」というのは,もう少し分かりやすく「必然と偶然」と読み替えても大きくは意味を変えないだろうと思われます。

そうしますと,希望的観測というのは,必然的なメカニズムが働いているにもかかわらず,楽観的な偶然に期待をしている状態だと思われます。

必要以上の悲観視も良くはありませんが,偶然に期待したところで,ギャンブルに過ぎません。


出生率が下がり続けています。
かなり深刻な数字になっているわけですが,「そのうち上向くだろう。」くらいの永年の希望的観測が,根本対策を遅らせてしまったと言えるでしょう。

人口推計に関して言えば,日本の場合移民がいないはずですから,新生児の出生時点で確定しているはずです。 問題は以後の出生率の推移なわけですが,それも急激な変化は1966年の丙午の年くらいのものでしたが,それが大きく関わる年金の制度設計などは毎回毎回出生率が増える想定でなされては修正がなされて来た経緯があります。「あまり悲観的な数字は出せない」という「忖度」という名の「バイアス」が掛かったのでしょう。むろんそんな推計では意味が無いわけですが。


コロナの感染数が下がっています。
これは喜ばしい事ですが,不思議です。なにかこれと言った対策を打ったわけではないのに,下がっています。 注意してたって増える時は増えるし,気を抜いていたって減る時は減る。

精緻な微分方程式を立ててシミュレーションすれば,ある程度の予測はできるのでしょうが,何分複雑系で 初期条件敏感性であれば,皆目予測は無理なのですが。

生体の不思議です。統計数字にウソが無ければ,「集団免疫」が獲得されたのでしょう。


分かり切っていること,必ずそうなるということと,全く確率的事象で偶然的な出来事は峻別して扱わなければならないのに,そうでも無い事例があります。

ごっちゃにされやすいのが,
「やってみないと分からない」というやつです。

「やってみないと分からない」事例は少なくないと思われます。あるいは,そういう事ばかりかも知れません。しかし,毎回偶発的で確率的なものであるのか,本来決定論的であるが実績が無くてワカランという事なのか,あるいは理論的予想はできるが未知の要因はあるかも知れないとか。

一昨年の夏でしたか。電気代が極端に安くなると騙るインチキ節電器のCMがあちこちのネット記事に寄生した事がありました。これに騙された人も少なくなく,それに触れた記事は何時にないものすごいページビューになりました。

電気理論からしてあり得ない。それ以前に,エネルギー保存則という,義務教育レベルのごく基本的知識があれば騙されないはずののですが,やはり世の中には,

「使ってみないと分からない!」
「そんな値段で効果があったらもうけもの!」

と言う考え方が,科学のイロハよりも優先してしまう様でした。人々の「こうあって欲しい」という「希望的観測」が悪用されたのでした。


分かり切っている事を敢えてやってみるということもあるかも知れませんが,自明なことを敢えて「やってみないと分からない」とやってみるのは,愚かな行為です。「体験学習」というものが一時期流行りました。「何でもやってみよう。やってみて身に付けようと。」特定分野では有用なのでしょうが,それを何にでも適用してしまっては,無意味であるどころか,危険ですらあります。節電器に騙されるのもその一つですが,むろん,もっとおぞましい危険な事例は幾らでも挙げられます。やってはならぬ事は理屈でしっかりと身につけないとダメです。


かつて,「野党が政権を取ったり政治が不安定だから天災などが起こる。」と言った人がいました。
自然災害と言う偶然を人間活動のせいだと,すなわち必然だと言うわけですから,全く根拠のないデタラメ発言なのですが,少なからずの人の共感を得てしまったようでした。


だんだん疲れてきましたので,ここから本題の本題。
ギターの練習に当てはめて考えてみましょう。

「弾いているうちに良くなるだろう」というのは,希望的観測です。当たらないギャンブルです。これはほぼダメです。弾き慣れる面はあるでしょうが,弾いていううちにタマタマ上手く行くこともあるかも知れませんが,確実に弾けたという状態とは言えません。むしろ問題点抱えたままの演奏を延々と繰り返すことに他なりません。

課題を具体的に整理し,問題点を個別に修正すべく,必然レベルに追い込まないと,確実な上達はあり得ません。レッスンを受けるにしても,理論的基盤を学ばないで個別曲を師の弾く通りに「ここはこう」と部分部分を教わる方法では残念ながら進歩は僅少でしょう。

ギターの練習はもちろんの事ですし,その他自分を研く行為に,希望的観測で偶然に期待するゴマカシの論理を用いたのでは効果が出る訳がありません。
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アヨアン・イゴカー

やってみなければ分からない、と自らの命を絶てばあの世を確認することができるわけですが、そんなことをする人はいないですが。「やってみなければ」と言う言葉には、誤解を抱かしめる誘惑(自分は他者のようなへまはしない等)があるのかもしれません。
楽器については、上達するためには沢山弾くしかない、だから時間を掛ければいい、とやっていても、往々にして失敗します。文法を理解しないで外国語をひたすら覚えるようなものです。
練習する度に、基礎(決定論)の大切さを感じています^^;
by アヨアン・イゴカー (2023-03-04 14:08) 

Enrique

アヨアン・イゴカーさん,
極論すれば「やってみなくてもわかる様にする」のが多くの学問の役割だと思います。
「やってみなければわからない」というのは多くの学問を無視するのか,挑戦するのか。
「実践あるのみ」というのも,むろん基礎理論に基づく実践ならば良いですが,やみくもな実践は効果を生みません。それどころか,何もしない方がマシだったと言う事になりかねないです。
by Enrique (2023-03-05 23:37) 

静謐な一日

僕の場合、理論よりも経験則優先です。それ(経験則)からすると、「遣る前から結果が分かるもの」であれば try する気も起きません。
特に人間の欲望をくすぐるような惹句をネット上で見掛ければ、歯牙にも掛けないという感じで見もしませんし、それがメールやメッセージであれば即座に削除です。
論点はまったく違いますが、『希望的観測』という願望は、言い換えれば人間の(こうあって欲しいという)欲望が根源にあるものと思われます。
であれば、人間の言動の誤謬の大半は、「風評」に惑わされず「無欲」あるいは「冷静沈着」を保てば、自ずと正解に導かれ、取り除かれるものと思われます。
by 静謐な一日 (2023-03-08 10:49) 

Enrique

静謐な一日さん,
>「遣る前から結果が分かるもの」であれば try する気も起きません。
それは全くその通りだと思います。ここでは経験則でも良くて,むしろ下手な理論よりも経験則の方が確実であったり,世人の多くはそうしているものと思われます。経験でわかっていれば最も確実でしょう。
ここでは,経験できないものを経験しないと(やってみないと)分からないとする愚を指摘しているつもりです。電気理論を体験して感電してみても全く無駄な事です。

by Enrique (2023-03-08 20:39) 

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