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音楽の聴き方の違いと [雑感]

結構人によって違うものだと思います。

自分で楽器を演奏する人でも,聴き方が違うと痛感します。
古い演奏が良いという意見もあります。むろんしみじみとした滋味はあります。しかし,「古い演奏が良くて新しい演奏はどうも」というのも,女性蔑視発言ではないですが,過剰一般化した話だろうと思います。性別でどうのこうのというのがバカバカしいのと同じ様に,新旧でどうというのも不毛な議論だろうと思います。

録音の問題もあります。古い録音の場合は脳内補完して聴かないといけません。生で聴いたとして,長年経ってその記憶がどのくらい正確でしょうか。古い新しいが価値基準では無く,良いものは良いのだと思いますし,そうでないものはそうでないと。ただし,それも好みです。個々人がそうだと「思え」ばそれで済む話です。演奏技術に関しては格段に向上していますから,かつての技術で聴きなれた音楽を最新の技術の演奏を聴くと却って奇異に感じるというのも良く経験することです。楽譜の版に関しても,例えばポンセの作品でセゴビア版でないのを,ポンセ版とか言ってしまったりしますが,「おいおいオリジナルはどっちだ?」と言いたくなります。

むろん,オリジナル重視は現在の考え方で,半世紀以上前は,オリジナルがどうなっているかよりも,その時代の雰囲気に曲を仕立て直して演奏するというのが,普通だったようです。そのセンスがマッチすれば素敵な演奏に感じられるでしょう。素直に楽しめれば良いと思います。オリジナル重視の演奏は感覚よりもアタマで聴くことになります。



IMG_6958.jpeg 私の年齢では奇異に見られます(モグリだと言われます)が,ギターの神様と称されるセゴビアの演奏を余り聴いた事がなかったのです(セゴビアに限らずあまり聴かないのです)が,最近この大家の演奏を聴いてみると,たしかに当時の聴衆に熱狂的に受け入れられたのは良く分かる気はします。リサイクルショップで購入したセゴビアのレコード「メヒカーナ」を掛けてみました。A面にあったパガニーニのロマンスが随分と仕立て直されて,素敵になっていました。もともと後期古典派や前期ロマン派の楽曲には,ちょっとかったるいところがあるので,手直しも止むを得ないかなと思います。オリジナルはヴァイオリンとの二重奏ですし,今となっては少々やり過ぎ感はありますが,つまらなさ過ぎよりは良いかなと思って聴きました。むろん現在ではあまりいじるのは好まれないでしょうが。

セゴビアはそれをバッハでもやっちゃうので批判もあるところですが,例えばセゴビア編のシャコンヌは,一部近代和声を持ち込んでいるのが玉に傷とはいえ,ブゾーニのピアノ編のシャコンヌなどに比べたら,ずっと端正なもので,この曲をギターで演奏するある理想形を示したものでしょう。ただ,現在では演奏技術も楽曲研究も格段に進んでいますから,セゴビア一人の業績にいつまでも頼る必要もないと思います。やはり「素晴らしいな」と感じる人はそれで良いですし,古臭い癖のある演奏だなと感じる人も少なくないでしょう。弾き方を表面的に真似る演奏はイタいです。頭から「セゴビアだから素晴らしい」と思うのは思考停止を招きます。ふだん論理的な人でも「セゴビアがこう弾いた」となるとそれに盲従してしまうのを良く見てきました。

演奏技術的にも当時としては突出していたものと思われます。多くの演奏家がその足元にも及ばず,神として崇拝したのも無理はなかったでしょう。最後の日本公演には行けなかったのですが,行った人に言わせると和音一つに強烈なオーラを感じたと,正に神格化して語っていましたが,「壊れた骨董品」という批評もあった様に記憶します。昔良くあった批判に「セゴビアは楽曲を弾きやすい様に改変してしまう」というものがありましたが,必ずしも弾きやすくしたのでは無くてセゴビア独特のロマンチックな表現に持っていったのです。上で挙げたパガニーニなどはそのまま弾けばラクなものをかなり難しくしています。むろん現在の感覚ではオリジナルをむやみに改変するという問題があります。上でも書いた様に,それはセゴビア個人の問題ではなく,当時それがむしろ主流だったわけです。あり得ない仮定ですが,セゴビアが現在の奏者がそうする様に原曲に忠実に弾いたとして,そこまで熱狂的に支持されたでしょうか。紛れもなく大家自身の美学に基づいて演奏して一世を風靡したのです。それは演奏家として誰の真似でもない素晴らしいオリジナリティであったわけです。誰もなし得なかったギターで膨大な作品に挑み続けたその姿勢にこそ学ばなくてはいけません。



技術と音楽性は,切り離せないところはもちろんあると思いますが,練習や注意深く聴く際は峻別すべきと思います。しかし音楽としてのギター演奏を,虚心坦懐に聴くというよりは,人により先入観が大きい様です。楽器を演奏する人ならば楽曲の難易度が判断基準になる人もいるようです。そういう方だと,「この難しい(と当人が思う)曲を良く弾きこなしている。」とかその様に感じるのでしょう。そういう方が思う難曲はバッハのシャコンヌだったり,ソルのグランソロだったりします。

「一流ホールで演奏すれば何百万ドルも稼げる演奏家が,ストリートで演奏してもわずかの小銭しか得られない」という話がありました。聴衆がいかに先入観で聴いているかを皮肉に突いています。楽器を演奏する人でさえバイアスの掛かった聴き方をしているわけですから,一般聴衆がそうだとしても無理はありません。楽章の切れ目で拍手したり伴奏時に喋ったりとマナーすらなってない人が,「さすがに,**さんの演奏は素晴らしいわ」とか言っているのは当然信用できません。しかし,音楽ビジネスとしては,そういう多くの聴衆も対象にしないといけません。多くの聴衆は,「音楽」を聴いてはいるのでしょうが,極論してしまえば,その人の経歴やら名声を聴いているのかもしれません。個別の曲の演奏ならアマチュアでももっと上手な人もいるでしょう。以前ピアノのブーニンがラジオで小学生にショパンのどれかのワルツのレッスンをしていましたが,小学生の方が上手に聞こえました。むろん当方の耳がバカ耳だと言われればそれまでですが,一定以上弾けていれば,あとは好みの問題でしょう。そういう現象はどの楽器の世界でもあり得ます。

クラシック音楽の世界なら,著名な「**コンクールで優勝」したというのが,大きな価値基準になります。当然有名コンクールで優勝した人がヘタなわけがありません。では2位3位はダメかというと,当然そんなことはありません。評価が逆ではないかと思う事もあります。以前も書きましたが,リオナ・ボイドが1位のトロントのギターコンクールでバルエコが2位だったわけですが,どうもギターの世界では女性が露骨に優遇される感はあります。当然女性の方が華はあるでしょうが,目をつむって虚心坦懐に聴いたらどうなのかなと。あと,「**音楽大学を首席卒業」というヤツ。まず大学のレベルがありますし,専攻楽器が一人だけという事もあり得ます。一人なら当然首席かというとそうではありません。成績が一定以上得られてはじめて首席と名乗れるので,首席がいない場合も複数人の場合もあり得ます。水物のコンクール成績よりも,しっかりとした大学の首席卒業の方が基礎の実力はあると思われます。

いずれにしても,全くバイアスの掛からない聴き方というのはなかなか難しいわけで,ぱっとしない演奏がもてはやされたり,素晴らしい演奏が埋もれる事があります。かなりの実力を持った人は少なからずいると思いますが,脚光を浴びるか否か,どの分野でも共通の事だろうと思いますが,クラシック音楽の世界でもその閾値問題は難しいものと思われます。
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Cecilia

オリジナルだろうとそうでなかろうと「良いものは良い。」、これに尽きると思っています。最近はオリジナル楽器を使った古楽演奏もジャズ風だったりして面白いものが増えてきました。
セゴビアの演奏、以前ラモーの曲をNAXOS MUSIC LIBRARYで聴き比べしている中で聴いたことがあります。ラモーを弾くイメージがなかったし、オリジナル楽器演奏が良いと思っていたので、こわいもの見たさみたいな気持で聴きましたが、セゴビアの演奏もなかなか良いなあと思った記憶があります。
いろいろ聴くことでそれぞれの良さを感じる耳が育てられるような気がします。私の場合はNMLで安く聴き比べできる環境があるので良いですが、CDを購入しようと思って最高の一枚を・・・と思ったらやはり評判とか経歴が基準になってしまうのでしょうね。
by Cecilia (2021-03-29 06:28) 

Enrique


Ceciliaさん,
原典主義も行き過ぎると面白みが減ってきますので,セゴビアの様なギター美学の演奏もあって良いのだろうと思います。しかし何事も行き過ぎるとより戻しが来ますね。
評判とか経歴のみで聴くのはどうかとは思いますが,なかなか埋もれた人を発掘するのは難しいですし,玉石混交の中から見出すのは至難な作業です。
ですから,こちらもバランスでしょうかね。評判は考慮するにしても妄信はしないことでしょうか。「~だから素晴らしい」というのはやめた方が良いと思いますね。
しかし当方はほとんど聴かないですね。むしろ聴いたことのない曲を弾くのが楽しみです。
by Enrique (2021-03-29 17:25) 

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