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流派について [雑感]

日本の伝統楽器,琴(筝)には,現在大きく生田流と山田流の流派があり,数の上では前者が多いらしい。
琴爪の形は前者が角爪,後者が丸爪。演奏曲目が異なり奏法譜,いわばギターでいうタブ譜も異なるようだ。琴に限らず,習い事・芸事には各種流派が存在する。さらに,~流とはいわないものの各界あらゆるものに相当する流派はある。

ギターでも,一時期セゴビア(流)派,アンチ(流)派なることが言われた時期があった。私がかつて読んだ2桁ナンバー時代の現代ギターはアンチ色が強かったように思う。しかし,あえてアンチ~と言われるのは,その主流が圧倒的な力を持っている時期の現象であろう。

セゴビア編の楽譜はオリジナルを改変した上に間違いが多く,さらに録音の演奏は異なっていたりする。音を飛ばしたり拍節がくるう。現在ではビデオやYouTubeなどの画像があるので,運指などもまねしやすいが,音だけの時代は弦の擦過音などで運指を研究したようである。うがった見方をすれば,楽譜もレコードも両方売れるよう画策したようにも見える(当時それは常識だったのかも知れないが幸か不幸か独学の私には関係なかった)。原典版があれば,それを各自研究すればよかっただけなのだが,大家を通して生み出されるオリジナル曲はもちろんのこと,練習曲やスケールですら,セゴビア編(選)のものが絶対的であり,オリジナルはこうだったというのは,後から言える事なのである。

長いブランクを経て眺めると,現代ギター誌からもアンチ色は影をひそめ,「個性的な演奏は編曲と紙一重」といった肯定的な表現も目立つ。時間の経過が,大家のくせを薄めたのだろうか。何でもありの現在では,個性の一つとして包含・許容されているのかもしれない。むしろ,歴史的な存在と見ればよいと思う。セゴビア以後の世代はジョンの態度はかなり参考になると思う。

しかしながらである。
以前関わったギターにも優れた留学生は,彼の敬愛するジョン・ウィリアムズがその師であるセゴビアを余りにも強烈に批判する事に当惑していた。師弟関係の重要さを日本生活で痛感したのだろう。アメリカの大学などでは,学生が教師を評価することは随分前から行われ,日本でも取り入れられて来ている。イギリスから来た先生が「発音が悪い」と学生から指摘されることもあるとかで,どちらも平気なものだが,日本で,果たして~流の門下生が師を評価するなどと言うことはありえるのだろうか?

武満徹が「ギタリストにもっと自由な精神を持ってもらいたい」と編曲した「12の歌」以降,ギター界の情勢はどう変わったのだろうか?非常に魅力的だが気難しく誤解も多い楽器。そうでないピアノやバイオリンのような主流楽器でも,プロの生活はほんの一握りを除いてはなかなか大変であろう。大勢につくか,あえて一匹狼を決め込むか。生徒側の事情とすれば,東京や大阪,NYやロスなど,ギター教師をたくさん選べる環境ならば,色々な観点から自身に向いた教師を探すことは可能であるが,そうでない地方では「~流」の教師につかざるを得ない事情もあるだろう。
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