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科学的演奏 [雑感]

相反するのが宗教的でしょうか?

大家の演奏がいくらすばらしいとは言っても,全く同じ様に弾くことは不可能です。
学ぶべきところは大いに勉強させて貰うとしても,神の様に崇めてしまうと,合理的な判断はできなくなってしまいます。師のコピーからスタートするにしても,どこかでそこからの卒業が必要でしょう。
まあ,一生かかっても無理ということもあるかもしれませんが。

以前取り上げたピアノのフライシャーは,若い頃ついた師のシュナーベルについて回想していました。

先生から離れて2年ほどしたころ,10年間教わったことが身についているかどうか不安になった。しかし,教わったことが頭の中でアクセスでき,教わった通りにやればうまく行くことがわかった。そうして,次の2つの新しい発見があった。

「教わった通りにやってみてうまく行かなかったとき,全く反対のことをやってみてうまく行ったとき。」

「ラジオから流れたベートーベンのソナタ22番。先生の演奏はこの上なく美しくすばらしいが,自分ならこうは弾かないと思ったとき。」

それらのときが,先生からの独立のときであったと。

まあ,巨匠レベルの話ですが。同じくすでに現役引退したジョン・ウィリアムスが彼の師であったセゴビアについての語りがいまだに印象に残っています。反逆児と呼ばれ,ロックの世界にまで足を踏み入れたジョンにして師の存命中は批判が出来なかった。自分の先生に向かって言い過ぎではないかという意見もありましたが,率直な彼の気持ちだったのでしょう。詳細は「セビリア・コンサート」の後半を参照いただくとして,ここでは科学的観点から考えてみます。

科学においては,現象を定量的に扱うことが必須です。物理量を測定する尺度が単位ですが,分かりやすいため,単位の基準を現物にとってしまう事があります。長さの単位の1mはかつては,地球の子午線の1000万分の1と決められました。いまだにアメリカなどで用いられるフィートなどはもっといい加減で足のサイズで決められたわけです。東洋なら腕の尺骨の長さを基準にしたそうです。しかし洋の東西を問わず30センチくらいの長さの単位というのは,その長さが扱いやすいということなのでしょう。経験的に決められていますから,慣用的な物差しは実用的であることは当然です。しかしながら,基準はもっと普遍的なものにすべきです。当然のことながら,あまりにいい加減な基準では,場所や時代によっても変わってしまい,どうしてもあちこちでいくつかのバージョンが出てきてしまうでしょう。長さは,基本単位ですからまだしも,本来長さから組み立てられる面積や体積の単位が独立してあったりすると面倒なことになります。ましてや,速度,加速度,力などは言うに及ばず,広く電磁気現象なども取り扱うには非有理単位系では手に負えなくなります。

長さの基準に足のサイズを使うにしろ,尺骨を使うにしろ現物です。1mを決めた地球ならもっと正確で良いかというと,必ずしもそうでもありません。足や腕のサイズよりはかなりマシと言っても現物であることに変わりはありません。地球のサイズも多少は伸び縮みするのです。かつては,そのように決めた単位を長さの基準になるメートル原器とか,1kgの元になるキログラム原器とかの人工物で基準を決めていました。時間ならば,地球の自転や公転周期を基準にしていました。しかしながら,いずれも現物を基準にしていたため,わずかにくるってしまいます。少しぐらいの誤差は日常生活に影響ないだろうとは思われますが,科学の進歩には障害になります。精密な測定によって全く新しい現象や事実が見つかる事がありますので。現在の長さの基準は,真空中の光速度から逆算されます。真空中の光速度は普遍的に一定のものだからです。もちろん,その前に1秒の時間をきちんと決める必要がありました。これは,セシウム原子核内で発生するある電磁波の周期の定数倍で決められています*。

一方,質量の基準も今年5月20日以降,キログラム原器といういわば現物を廃止して,プランク定数を基準にしたものに変更するそうです。プランク定数は光の振動数とエネルギーと結びつける定数です。その単位は[Js],基本単位で表せば,[kgm2/s]ですので,この値を従来の実験値から新たに定義値として固定すれば,すでに定義されている1mと1秒を用いて,1kgがきちんと定義できるというわけです。

このように,時間,長さ,質量といった基本単位は,かつての現物の基準から,なるべく普遍的な物理定数などを基準にしたものに変更されて来ています。現時点では,かなり厳格な定義がなされている単位系ですが,それとて絶対的なものではありません。現在の基本単位のおおもとの基準になっている1秒の定義も今後再検討の議論もあるようです。科学的態度は,その時点で最も良いと思われる客観的事実をもとに議論を重ねることです。新事実が発見された結果により,従来導き出された結論の再検討や修正を厭いません。むしろそれが進歩だと考えます。

対して,絶対的な存在を認めるのは宗教です。教祖や教典に帰依する。人間にとってはそれはむろん必要でしょう。だから,演奏だって絶対的な教祖様がいてその演奏と同じ様な演奏をしたい。というのも,人間の営みでしょうから,それはそれで否定できません。しかし,いささか強引な例えではありますが,演奏も,大家の演奏を基準にするといういわば現物基準もしくは宗教的な考え方から,より普遍的な音楽理論に基づいた科学的なものに変更すべきだと考えます。そもそも録音のなかった時代の演奏家の演奏は参考にできません。

おおげさなことを書き綴ってしまいましたが,卑近な例に戻れば,譜面を見ただけではイメージがわかないという声も耳にします。確かに,演奏を聴けば「そんな風に演奏するのか」と目から鱗ということはありますので,逆に譜面を見ただけでは,イメージがわきづらいというのは分からなくもありません。ただ当方にとって,音を聞いてから演奏するというのは,私にとっては,ささやかな楽しみの一つがなくなるということでもあります。新しい譜を読んで,聴いたことのない音楽を紡ぎ出す楽しみでです。大家の演奏には遠く及ばなくても,自分なりに,自分の意思で譜面を音にするわくわく感。ひそやかな楽しみでもあります。
*「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移により放射される電磁波の周期の9192631770倍に等しい時間」という定義です。
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たこやきおやじ

Enriqueさん

少なくとも音楽の分野においては、例えばセゴビアの演奏を絶対視しようが批判しようが、それは聴く人の感性の問題だと思います。宗教的な感じ方も科学的な感じ方も両方あっても良いのではと思います。私は音楽は良い悪いでなく、聴く人の好き嫌いで「評価」すればよいと思っています。本文の趣旨と少し外れたコメントかもしれませんが、悪しからず。(^^;
by たこやきおやじ (2019-03-16 23:46) 

Enrique

たこやきおやじさん,
私も,宗教と科学が両立する様に両方のスタンスがあって良いと思いますし,あるべきです。むしろ中世の様に宗教が科学を裁いたりし出すとまずい。そこで理屈をつけてみたということです。それがないと好きな人と嫌いな人とでは分かり合えませんので。
自分の場合は,学ぶべきものは多いが絶対視する気にはならないということで理屈をつけてみました。
むしろ心配なのは,若い人たちには好き嫌い以前にセゴビアそのものを知らない層が出て来た。まず知ってもらっても良いのかなとは思います。
by Enrique (2019-03-17 05:55) 

アヨアン・イゴカー

>音を聞いてから演奏するというのは,私にとっては,ささやかな楽しみの一つがなくなるということでもあります。新しい譜を読んで,聴いたことのない音楽を紡ぎ出す楽しみでです。

素晴らしい取り組み方だと思います。芝居を舞台で観る前に、戯曲を読んで作者が描いた物を直接読み取る方法と同じですね。解説書を読んでから原典を読むのが一般的なような気もします。
ハードルが高い分だけ、自分自身の解釈ができた喜びも大きそうです。
by アヨアン・イゴカー (2019-03-17 13:46) 

Enrique

アヨアン・イゴカーさん,
もう知っている曲は別ですが,そうでない曲を譜読みする際,聴いてからのほうがずっと早いとは思いますが,何やらカンニングした様な気になって気持ち悪いのです。巨匠の録音があるのはわかっていても聴かないですね。比ぶべくも無くても,自分なりに弾いてみるというのは,まず素材で味わってみる楽しみでもあります。自分の料理の腕は大したこと無くても,やはり素材の力というものはあると思います。
by Enrique (2019-03-17 21:54) 

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