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脱力奏法に関する思い出 [演奏技術]

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例の福田進一さんのツイッターで,脱力が話題になっていました。

私は開始40年も経って,この頃ようやく,左手に関してはほぼ出来たのでは無いかと思っています。この脱力した感覚と言うのは,ちょうど自転車に乗れる様になるとかスキーを滑れる状態になるというのと同じ様なもので,だんだん少しづつと言うものではなくて,フォームを正し,心がけて練習していて,ある日何かのきっかけで突然出来て,それ以降は忘れなくなるといった性質のものだろうと思います。

出来てしまえば当たり前のことで,なぜ出来なかったのだろう?という性質のものです。40年も補助輪で走っていたのかと忸怩たる思いですが,いや,私が始めた当時はプロでも力の抜けていない人がいたのではないかと自己を慰めるのみです。

独学だと言うに及ばずですが,後年習い出してからも脱力のことは殆ど言われず,歯を食いしばって練習していた様に思います。もちろん,昔でも一流プロの人は出来ていたはずですし,もし若い頃に脱力奏法が出来ていれば,もう少し上手くなっただろうなという,やはり何ともな気持ちです。人間気づきは何時でも良いわけですが。例えば,今は亡き芳志戸幹雄さんは,その点をはっきりと指摘していました。彼の1976年前期のNHKテキストに書かれています。

—左手の親指“裏方さん“の話—
というp.35のコラムです。

せっかくですから,全文引用させてもらいます。
 私が最初に師事した三木理雄先生は,左手の親指のことを時々,“裏方さん“と呼んでおられました。そういえば,前面からギターを弾いているところを見ると,①指から④指までは華々しく活躍するのに比べて,親指はたいせつな存在なのに,ほとんど見えないからです。
 ギターの練習生の中には,ネックの裏側の親指と,表側の①指から④指とで強くはさみこむようにして,押弦している方が多いようです。確かにそれでもよいのですが,それよりももっと左手親指の大切な役割は,ポジションを決定する,ということなのです。押弦は,握力ではさみこむことよりも,親指によって決められたポジションに,①指から④指を置く気持ちで弾いて下さい。
 たとえば,第5ポジションで弾くさい,親指は第5ポジションを決定するために,そのあたりに置くのではなく,まさにそこに置く,という自分自身の一点を見つけて下さい。もちろん,各指のその時々の形によって,その一点が移動することはありますが,スケールやアルペッジョの練習等は,いつも的確に定まった位置に親指を置いて下さい。
 左手親指を“裏方さん“と呼ばれた三木先生が,羽田沖の全日空の飛行機事故で,先生の友人であられたギタリストの人見徹先生と共に,亡くなられてから,11年たちます。

この記述は読んではいましたが,40年も経って分かると言うのも何とも気の長い話です。でも当時,日本で第一人者と言われた方でも,脱力ではなく明らかに挟みつけて弾いているフォームの方もいましたし,独学の私が分からなくても仕方が無かったのかなと思う次第です。当の芳志戸さんが亡くなられて,この5月15日で丸20年も経ちます。
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アヨアン・イゴカー

近年、難曲を易々と弾きこなす若い人々が沢山います。昔ならば神童とか天才とか言われたような人々が何人も、それも何年か毎に登場するのです。日本の演奏人口が昔に比べ断然、格段に多くなっているのは間違いありませんが、それと同時に指導方法の進歩が、実は非常に大きな影響を及ぼしていると思います。効率のよい練習、やってはいけない練習、そういった対策本のようなもの、メソッドが次々に出てきているからです。
40年前には、プロでも云々と言うお話ですが、これは日本のクラシック音楽演奏家ばかりか、世界中の人々に共通の変化ではないでしょうか。
リストの曲などについては、「この曲を弾ける日本人は殆どいない。」などと言われたりしていました。当然です。絶対数が少ないのですから。今は、そんなことは全くないと思います。
by アヨアン・イゴカー (2016-05-01 22:31) 

Enrique

アヨアン・イゴカーさん,ありがとうございます。
技術の進歩には目を見張るものがあります。困難さをまるで感じないかの様な。合理的な練習のたまものでしょう。
何でも近道が良いとは限らないと,我が身を励ますのみです。バレエでもいきなり足が高く上がる人は途中の表現が出来ないけれども,努力してじわじわ出来た人のほうが中間表現が出来て味わい深くなるとか。寄り道で拾ったものもあるとか,そんなことを思うのみです。

by Enrique (2016-05-01 23:33) 

REIKO

昔も「無駄に力まない」「手や腕の重さを利用する」という考え方はあったのでしょうが、それら諸々をひっくるめて「脱力」という一言で表現するようになったのが、わりと最近…なのでは?という気がします。
手元に何冊かある、昔から出ているピアノ練習曲の解説には、「脱力」という言葉は全くないのに、最近刊行されたものでは普通に目にしますし、かつて見ていた「ピアノのおけいこ」テキストのメモや書き込みには「脱力」のダの字もなくて(笑)、先生がそのようなことを言った記憶も全く無いです。
記事に引用されている文も、直接「脱力」という言葉を使っているわけではありませんよね?

私がこれを知ったのは数年前ツイッターで、チェンバロを習っている人(ピアノ再開者の転向)が、先生にいつも「脱力、脱力!」と注意される…と言ってたことで、最初は「何それ??」とビックリしたほどです。
ツイッターで脱力に関するツイートすると、結構反応がありますよ。
むしろ最近の問題は、脱力(奏法)という言葉が安易に使われ、独り歩きしてることかと思います。
「脱力ってどうやるの?」「自分が脱力できてるかわからない」「脱力しなければ思うとかえって力んでしまう」…等々、振り回されている人が結構いますね。
昔だったらこんな悩みなかったはずなんですが…。

by REIKO (2016-05-02 20:46) 

Enrique

REIKOさん、ご指摘ありがとうございます。
確かに引用記事も脱力そのものを言っているわけではなく、左手親指の役割を言っています。左手にしろ右手にしろ、40年前には「脱力」なる考え方は全く無く、第一人者の方が教則本のなかでバリバリに力の入ったフォームの写真を載せていた時代ですし、ごく最近でもそうです。しかし、ギターの左手に限って言えば、今で言う脱力が出来ていないと、記事で言っている様にはなりませんので、その事を左手の役割の観点から看破したものだと思います。
表現の仕方も違います。腕の重みを使うというのでは無く、置く気持ちとか。しかし重力奏法が出来ていないと、著者の指摘通り、左手表側は置くのではなく、親指とで強く挟み込む事になり、ポジション決定の役割よりもはさみ込む為の力を込める役割になります。
面白いのは、「確かにそれでも良い」としている点で、力の抜け具合を最優先課題とはしていない点です。端的に言えば、力が入っていたって左手のポジション決定が正しくできれば良いのだと言っていますが、今の考え方から見ればこれは脱力しないとムリなことだよね〜という事です。当時は多くの人が力を入れて弾いており、その力を抜けと言っても全く理解されなかったのだろうと思います。
現在では逆に力を抜く事が奏法の優先課題となり、それが出来たかどうか悩む人が出てくると。奏法の問題が整理されて、大いなる進歩だと思いますが、世の中進歩すると弊害も出てくる一つの例かも知れませんね。
by Enrique (2016-05-03 06:14) 

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