SSブログ

続?危ない危ない(煩悩の雲) [メンタル]


宗教には,人が人として生きて行く為に有用な教えがあると思います。
私は特に特定の宗教に帰依している訳ではありませんが,強いて言うと仏教徒でしょうか。先祖からの菩提寺があり,仏事はそちらのお世話になります。また日本のどこかかにかに住んでいると,自動的にそこの所轄?の神社の氏子になるのだそうです。神道には教義の様なものは無いわけですが,私が形だけとはいえ仏教徒だからか分かりませんが,仏教的な考え方の中には,時々共感出来て,活かしたいと思うものがあります。

最近それを感じたのは,玄侑宗久氏が説く,「煩悩の雲」の考え方です。たまたま,先週土曜の午後に見たNHKのEテレ(教育テレビ)で,語っていました。


座禅をしていて,無の境地に至れれば良いのですが,大概何かの煩悩が湧いては消えて行きます。突然,「そう言えば,誰それに小豆やらヌカを何合貸していた」とか,そんな記憶がふっと浮かぶ事があると。浮かばない様にしようとしてもそれは無理だと。

煩悩は雲のようなもので,どんどん出て来ます。発生を止める事は出来ません。しかし,その雲にあれこれ惑わされるのでなく,あるものとして受け入れて,それらの雲を,あっても邪魔にならない様,眼下に見た様な状態に成れば良いと,氏は説きます。我慢するのはダメだと言います。我慢は傲慢とほぼ同義だと。我慢しなければならないというのは,己が勝手に想定した枠組みに合わないとするからであって,分かりもしない先行きを想定するからだと。想定を止めて成すがままにすれば,どうなるか見極めるために生きてみる価値が出て来ると。氏は,福島の人たちにそれを説いているのです。津波や原発事故の不幸にあってもです。


この教え?を,私は,楽器の人前演奏に当てはめてみました。
上がるまい,と思っても上がってしまいます。それは当然ある雲なのです。その雲に惑わされない様にしないといけないのです。しかし我慢したり,歯を食いしばってはダメなのです。ではどうしたら,上がりの雲を眼下に見降ろす事が出来るのでしょうか?

おそらく上がりは煩悩の一種であって,無くそうと思っても無くならないのです。まずは,無くそうという意識が間違いだという事に気がつき,少し気がラクになりました。上がりと共存してそれが邪魔にならない様に持って行くべきでしょう。そこが課題ではあるのですが。


氏は言ってなかったと思いますが,雲の様に湧いてくるのは煩悩ばかりではありません。良いアイデアやインスピレーションも出て来ます。いずれも自然に湧いて来る雲なわけですが,煩悩は出ないで欲しいが,良いアイデアやインスピレーションは出て欲しいと。これまた全くもって身勝手な願望であります。

煩悩であれ,良いアイデアであれ,自然に湧いて来る以上,それを上手くコントロール出来れば良いのでしょう。演奏時の煩悩,いわば上がりを無くすことが出来ないとすれば,上がりの効能も考えてみたいと思います。別の側面で見れば,アドレナリンが出て,普段以上の力が発揮出来る状態でもあるのです。過剰では困りますが,演奏に向いている面もあります。ただ非常に敏感な状態になっていますから,ちょっとしたミスなどを高感度に感じてしまい,リハーサルでさえ,自分が一番上がって一番ヘタクソな演奏だったと感じて落ち込んでしまう事があります。

「自分はこのくらい弾けるはず」という想定があるから,想定外の演奏になってしまうのでしょう。練習時と本番とでは条件が違うのですから,同じ様に弾ける保障は無い訳です。練習時でさえ,上手く行く事,失敗する事があります。ですので,最善を尽くすのはもちろんですが,もともと想定などせず,本番で弾けた演奏が自分の実力と思えれば良いのでしょう。しかし,なかなかそうも思えないのは身に潜む傲慢さの成せる技なのでしょう。
nice!(9)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 9

コメント 2

アヨアン・イゴカー

私も、仏教には惹かれます。が、葬式で僧侶のお経や焼香の儀式の度に、これは贋物だ、形式主義だと強く感じてしまいます。原始仏教はこんな風ではなかった筈だ、と。土台、頭にすんなり入ってこないお経を聞いて有難がる時代は終わっている、多くの人はついてゆけないだろうとも思っています。
それでもやはり、ジャータカ物語に惹かれたり、原始仏教に惹かれたりしています。信ずることはできなくとも、何か絶対的な者に依存したいと言う気持ちからは自由ではありません。
by アヨアン・イゴカー (2014-10-11 23:08) 

Enrique

アヨアン・イゴカーさん,nice!&コメントありがとうございます。
仏教の教えの哲学的なところは科学的思考とも矛盾しませんし,参考になるところがあると常々思っています。ただ,ご指摘の様に,「葬式仏教」になっているところがあります,威厳を演出するためか,BOSEの音響システムを使って雅楽を流してみたり(お経も?),何やらパフォーマンスをしたり。私はアレはアレと割り切っていますが,余りにへたな芝居は止めた方がよいとは思います。
私は本来の仏教の良いところ(共感出来るところ)をつまみ食いしているような,まあバチアタリな状態です。
by Enrique (2014-10-12 15:34) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0