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志野文音さんの博士論文を読む(第4章・前半) [楽器音響]

ギター奏者志野文音さんの博士論文「クラシックギターにおける奏法の違いが音色印象に与える影響」を読んでいます。論文の中心部に差し掛かってきました。今回は第4章に入りますが,この章は内容豊富なため,前半・後半に分けて今回は前半の紹介を行います。

第4章は,「調査A 楽器差における弾弦位置と異弦同音の違いによる音色印象」と題されています。今回はその前半,実験Iの一対比較による聴取実験(楽器差における音色の非類似度の分析)までです。この章では,筆者自身の先行研究とほぼ同じ手法で,楽器の違いによる影響を調べています。また,ここで改めて実験方法が詳細に記され結果の解析も詳細なものです。ここでは,その概略を紹介する事にします。

4.1節は「実験刺激」と題されています。実験手法は第3章の筆者の先行研究と同様のようです。異なる点は3種の楽器を新たに追加したことと,被験者が少し異なることです。研究進行に応じて新たな実験が追加されて来ており,実験期日が異なりますから被験者が異なるのは止むを得ない事でしょう。聴取実験用の音源を学術的言葉で「刺激」としています。4.1.1項では自身の先行研究の実験方法に改めて付加したものを含め詳細に記述しています。ここでは,楽器は従来のアントニオ・マリンに加え新たに1978年製の松岡良治M30,ヤマハCG171C,タカミネNo.8の3本の楽器を追加します。異弦同音と弾く位置等,音のサンプルの取り方は全く同様(図1,図2)の様です。使った弦はサバレス・ニュークリスタルとの事です。奏者は敢えて客観性を持たせるため属性のみ記していますが,(たぶん)ご本人でしょう。最も適任者と思います。表1に用いた楽器の諸元が示されます。

画像1.png
図1. 音刺激に用いた同一音高となるポジション

名称未設定2.png
図2 弾弦位置5種類(3章から再掲)

表1. 4本の楽器の製作者 (メーカー)・モデル、製作年、生産国、表面板の材質。マリンはモデル名なし。
  製作年生産国表面板
マリン
2003年スペイン松単板
松岡良治M30
1978年日本杉単板
ヤマハCG171C
2000年台湾米杉単板
タカミネNo.8
1987年日本松単板


4.1.2項では「音刺激」の収録方法が詳述されています。藝大内のスタジオBにて奏者の周りを吸音板を囲み,Neuman U87iで40cmの距離で録音しています。奏法は先行研究でも用いたアポヤンドです。その他収録音を安定させるための工夫も詳述されています。4.1.3項では,楽器以外の条件を揃えるための音刺激の細かな編集等の工夫が記されています。弾弦前の20msのフェードイン時間と弾弦後の余韻が暗雑音と区別付かなくなる約2秒後にやはり20msでフェードアウトさせて,一つの音刺激を2秒間に統一しています。客観性を保つための注意深い処理です。4.2節では,実験AのIとして,一対比較の実験,すなわち非類似度の実験(被験者に整えられた音刺激のペアを聴いてもらい,似ているかどうかを7段階で判定してもらう)について述べられます。15種類の音刺激から120対の音刺激を試聴に回したとの事です。4.2.1項では聴取実験方法(聴取実験の具体的方法)について,4.2.2項では実験設備(PCやヘッドホンなど)について書かれています。4.2.3項は試聴参加者の属性などについてです。楽器がマリンのみの時の試聴実験とは期日も違い実験参加者も若干異なるようです。4.3節では分析結果(図3)について記述されます。3章で述べられたマリンだけの時の分析結果と縦軸と横軸が逆に表示されていますが,全く同じ様な結果が出ています。楽器の追加や試聴者の若干の変更は分析結果にはほぼ影響していなさそうです。特に③弦の弾弦位置の順番が逆転しているのも,前回指摘した通りの理由でむしろ全く妥当な結果だと思います。

画像2.png
図3 15種類の音色の共通布置(楽器)
図中の記号は弦の違いを示す。△:1弦、□:2弦、◯:3弦を表す。数字は弾弦位置の違い。12フレット真上の位置からブリッジ方向への距離はそれぞれ、1:65mm、2:125mm、3:185mm、4:245mm、5:295mm。


試聴で音の類似度などを判定してもらうわけですが,聴いてもらう音いわば入力側の物理的な音響パラメータである音響特徴量というものも数値化しないといけません。それを如何に数値化するかは,ここでは過去の文献の情報や実際に聞いてみた主観を元に注意深く選定されています。それがスペクトル重心であり,時間重心なわけですが,それらに加え,スペクトル重心が最大値に達する時間,500Hzの上下で分割したスペクトルエネルギー比,第1〜第10倍音までの時間重心の平均値という5種類の数値が抽出されています。これらの数値を各楽器で算出したものが表2に示されます(論文では2ページにまたがったものをここで一つの表にまとめました)。

この数値は聴いてもらう音のデータなわけで試聴の判定は入っていません。楽器の違いについては明言されていません。ここのデータは分析結果のある軸に対応するだけかもしれませんが,当方の様な楽器オタクの興味としては,やはりマリンとそれ以外の量産楽器との比較をしてしまいます。

表2. 各音刺激の音響特徴量の算出値 (楽器:マリン・松岡・ヤマハ・タカミネ)
音刺激の記号は、△:1弦、□:2弦、◯:3弦を表す。数字は弾弦位置の違いを示す。12フレットの真上の位置からブリッジ方向への距離はそれぞれ、1:65mm、2:125mm、3:185mm、4:245mm、5:295mmである。
楽器音刺激スペクトル重心[Hz]スペクトル重心が
最大値に到達するまでの
時間 [sec]
500Hzで分割した時の
低域対高域のスペクトル
エネルギー比 [dB]
時間重心[sec.]第1~10倍音までの
時間重心の平均値 [sec.]
マリン△1491.530.14-5.240.392.80
△2472.440.10-4.290.392.77
△3525.270.16-0.90.352.71
△4569.960.160.780.322.75
△5509.750.30-1.370.252.82
□1461.150.16-7.730.332.40
□2452.660.08-6.540.302.07
□3454.770.09-4.310.412.34
□4546.010.141.140.262.02
□5523.330.25-0.280.232.08
◯1469.120.07-5.450.371.94
◯2397.820.07-12.480.422.20
◯3417.460.09-7.460.432.18
◯4462.330.10-1.140.321.92
◯5471.530.16-1.180.252.00
松岡△1497.970.09-4.030.462.92
△2477.360.14-3.970.412.76
△3463.580.15-2.590.402.75
△4551.880.150.352.702.70
△5549.60.260.630.272.66
□1431.600.07-8.30.311.91
□2451.940.07-6.190.282.00
□3440.690.08-4.700.292.11
□4501.620.12-1.060.342.22
□5469.720.16-1.570.262.19
◯1407.410.06-8.90.281.98
◯2388.620.07-11.990.291.77
◯3390.160.07-9.830.261.81
◯4395.730.07-6.40.261.78
◯5491.510.09-1.310.221.71
ヤマハ△1542.150.13-2.16 0.563.10
△2543.580.13-0.070.503.00
△3563.040.131.190.452.94
△4606.550.152.220.402.92
△5685.290.212.30 0.312.82
□1461.150.09-6.710.582.55
□2464.250.13-3.29 0.512.39
□3468.810.12-0.590.462.42
□4527.950.131.900.422.44
□5571.940.161.240.382.43
◯1458.120.10-3.25 0.332.08
◯2388.650.08-11.03 0.352.54
◯3427.730.12-4.82 0.352.17
◯4462.490.11-0.700.322.08
◯5458.270.17-1.16 0.302.07
タカミネ△1418.67 0.16-6.210.503.13
△2453.320.17-2.810.423.09
△3407.070.17-1.090.433.06
△4489.480.17-0.560.403.03
△5446.980.18-2.550.312.92
□1410.150.15-7.880.652.71
□2398.340.15-6.580.622.53
□3402.600.15-5.160.602.52
□4480.870.15-0.020.442.46
□5433.530.16-2.510.342.34
◯1380.080.08-9.350.492.97
◯2364.640.15-11.310.492.68
◯3384.380.09-8.330.502.41
◯4422.440.15-3.010.452.28
◯5448.000.16-1.650.352.18


図4では,INDSCALで分析した座標上での各音色の布置に,弾弦位置に対応する軸d1と異弦同音の軸d2を記し,さらに音響特徴量と音刺激の布置との相関があったものを矢印で示しています。楽器による差は少し出ているように見えますが,筆者はどの楽器でも同様な傾向としています。

画像3.png
図4 15種類の音色の共通布置(楽器)
図中の薄い太線は、弾弦位置に対応する軸d1、異弦同音に対応する軸d2を示す。矢印は楽器ごとの音響特徴量と音刺激の布置との相関を表す。薄い矢印は「500Hzで分割した時の低域対高域のスペクトルエネルギー比」、濃い矢印は「第1~10倍音までの時間重心の平均値」を示す。
4.4節で,筆者は考察を記されています。結果から推定できる事実を慎重に述べていらっしゃいます。大体経験的につかんでいるものと同傾向であり,このような客観データが演奏にも生かせるのではないかとの指摘です。むろんこの結果から直ちに楽器の良し悪しを判定できるものでもなさそうですが,楽器によって,弾弦位置の軸d1と異弦同音の軸d2と相関のある音響特徴量が表示されます。むろん,それらの相関係数で楽器の良し悪しを測る事にはならないでしょう。またマリンと他の量産楽器3本とでは聴取者に若干違いがあることも楽器差の判断は慎重にならざるを得ない原因かもしれません。

無謀を顧みず当方の独断意見をさしはさめば,表2の音響特徴量(元の音源データの物理的特徴)から言えるマリンの優位性は,いずれのパラメータも高いレベルでバランスがとれていることだろうと思います。高級な楽器だからいずれのパラメータもダントツにトップということはありえず,むしろあちらを立てればこちらが立たず,トレードオフの関係になっているパラメータも多そうです。量産楽器でも個別には優れた点を持っています。例えば音の魅力に関連すると思われるスペクトル重心の高さではヤマハがトップです,いっぽう音の伸びに関連する時間重心の高さではタカミネがトップです(スペクトル重心は最下位)。マリンはパッとした特徴をもっているわけではありません。敢えてとりあげるとすると,時間重心の高さに関して言えることは,①弦②弦③弦と移るに従い,他は時間重心が低下(音の伸びが無くなる),あるいは絶対値の大きなタカミネもバラついていますが,マリンは①弦開放の音の伸びは最低ですが,特に右手の弾弦位置3において,①弦0.35,②弦0.41,③弦0.43msと安定し,むしろ増えています。この事は,初級者用と上級者用とでは決定的に異なると思います。なお,ここの文責は当方に属します。(つづく)
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Cecilia

志野さんはピアノも弾かれるのですか?
気になったので経歴を見て驚きました。
いろいろな意味で才能豊かな方なのですね。

数年前高峰ギターの工場にコンサートを聴きに行きました。(福田進一さんのコンサート)無料でいろいろなジャンルの方のコンサートを時々やっているようです。
by Cecilia (2021-05-07 08:59) 

Enrique

Ceciliaさん,
たぶんかなりの腕前なのだと思います。作曲もされる才能豊かな方です。この頃の若い演奏家にはマルチな才能な人が多い様な気がします。
by Enrique (2021-05-07 09:58) 

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