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志野文音さんの博士論文を読む(第3章) [楽器音響]

ギター奏者志野文音さんの博士論文「クラシックギターにおける奏法の違いが音色印象に与える影響」を読んでいます。
今回は第3章を見ます。

第3章は,「音色の多次元性」と題されています。ここは音色を調べるための,いわば実験方法に対応する章でしょう(後の章でも実験方法は述べられますが)。音色研究の手法としてどんなものがあり,どの様な先行研究が行われているか,ギター音に関しては他の人の先行研究が少ないため筆者本人が行った先行研究について記述されます。

3.1では音色研究の方法として,まずJISの音響用語に示された音色の定義を述べ,音色はその多次元性のため物理量との対応づけが困難とされることを指摘しています。そのため筆者は心理学的測定を行うわけですが,いくつかある手法からMDSおよびその一種であるINDSCALを使うことを述べ,以下その説明をしています。

3.1.1は用いた手法の「MDSとINDSCAL」について丁寧に説明しています。MDSは多変量解析の一種で,林の数量化理論IVを使うもののようです。この実験の場合は,被験者に対になった音を聴かせて,5段階ないし7段階で類似性を判断させたデータから解析します。主成分分析では解析データを2次元座標に投影しますが,MDSでは3次元の距離座標とするようです。類似性は投影された座標における「距離」の近さで表されますので,ここでの距離は非類似度という事になります。INDSCALはMDSの一種で個人差を考慮に入れたものだそうです。以下,これらの手法を使って心理量と物理量との対応を調査した先行研究の紹介がなされています。
(1)Plomp(1976)による音色と周波数スペクトルの類似度,(2)Miller&Carterette(1975)音色と振幅エンベローブの類似度,(3)音色と周波数スペクトル・過渡的特性の類似度についてです。大枠は調べられている様です。特に(2)や(3)の件については当方も経験しています。ギターの音のアタックを削って余韻を長くすればチェロの音に聞こえます。

3.1.2では,評価語を用いた標準的な手法としてSD法について述べ,この研究ではSD法は用いず,評価語を用いる評定尺度法の方のみを絶対判断として用いるとしています。さらに,評価語を用いた先行研究についての紹介がつづきます。なお,これら(Bismarck, 1974a, 1974b)はいずれも因子分析をして音色表現語から主要因子を抽出しています。

3.1.3ではクラシックギターの音色研究について行われた先行研究について詳述されています。(1)クラシックギターの音色表現語として,Tranbe(2004)によるギター奏者22名のアンケート調査結果が示されます(表1)。

表1. 2名以上のギター奏者によって定義された形容詞 (Traube, 2004)
表の左の列の数字は形容詞を定義した人数。
Number of DefinitionsAdjective in English
14
metallic
13
round
12
bright
8
thin, warm
7
velvety, nasal, dry
5
tough, dark, muted
4
sweet, thick, sharp, pulpous, resonating
3
clear, hollow, brassy, luminous, natural, open, full, spongy, transparent, veiled
2
damped, oval, percussive


また,その22名のうちの1人が,弾弦位置に対応する主観的な印象を提供していたそうで(図1),それをもとに音色表現語をグループ化しているのだとの事です(図2)。参考ながら興味深いので引用しておきます。
図1. 1名のギター奏者が提供した弾弦位置に対応する音色表現語 (Traube, 2004)

図2.png
図2. 音色表現語のグループ化 (ibid.)


(2)では音のほうから弾弦位置を推定する方法について書かれています。かなり精度の良い手法も提出されているそうですが,「音から太鼓の形がわかるか?」という問題と類似の一種の逆問題ですから難しいでしょう。

(3)では異弦同音を推定する手法について述べられています。これも難しそうですが,さまざまな音響特性量を組み合わせることで,89%とか85%のとかの識別精度が得られているとのことです。

(4)ではスペクトルと時間に関する音響特徴量として,「スペクトル重心」と「時間重心」という量を用いるとしています。スペクトル重心は,電気音響で昔から使う高調波歪率とやや類似の数値ですが,こちらは分母が全高調波の振幅の和で,分子は振幅にいわば腕な長さ(高調波の次数)を掛けた,いわゆる重心になっています。全高調波がどれだけ高い方に偏っているかが分かる量でしょう。同様に「時間重心」というのも,同様で腕の長さが時間になり,こちらは音圧を2乗して算出するようです。こちらだと音響のエネルギーがどれだけ後ろにずれるかという量ですから,アタックが強く余韻が強いと前に(小さく)逆だと後ろに(大きく)なる量です。それぞれ,音を一つの指標値としてまとめる際の代表値として用いるこどができ,適宜次数や両者を組み合わせるとしています。

3.2では筆者の先行研究や事前調査をまとめています。
INDSCAL法を用いて異弦同音と弾弦位置の違いによる音色の類似度を調べた結果が述べられています。異弦同音に関しては,①弦開放,②弦5フレット,③弦9フレットの押弦位置の3種類,弾弦位置に関しては,12F直上の位置からブリッジ方向に65mm, +60mm, +60mm, +60mm, +50mmずらした5種類,つごう3×5種類の音がサンプル音です(図3)。楽器をアントニオ・マリン・モンテロ(2003年製)を用い,これを大学内でアポヤンド奏法で録音したとの事です。書いてないですがおそらくご本人が弾いたものでしょう。むろん奏者としては申し分ありません。この15種類の音のサンプルを,音楽経験の異なる24名がヘッドホンで聴いて2つの音がどのくらい似ているか?を7段階で判定してもらったそうです。

名称未設定2.png
図3. 3種類の弦×5種類の押弦位置
この回答をINDSCALで分析した結果が図4です。分析結果の横軸(Dimension1)はスペクトル重心に,縦軸は高域の減衰時間と対応するとの事です。ブリッジ寄りを弾くほどスペクトル重心は高まっており,太い弦になる程,減衰時間が短く,各弦と弾弦位置が異なる音サンプルはみごとにグループ化しています。弾弦位置の違いによる高調波の発生は,弾弦位置の変化に対して鈍くなるのは妥当な結果でしょう。特に9フレットを押さえた③弦は,弦長が390mmになっていますから,2位置が最も柔らかく,1位置と3位置で弾いた際がほぼ同じ音響特性になるはずです。また,①弦の場合では1位置と2位置の違いくらいでは高調波の発生に大差ない様です。弦の真ん中(開放弦で12フレット)の弦の初期変形では,偶数次は全く含まれず,そこから少しずらしても,次の発生次数が2次ですから,中々出て来ないと思われます。この結果は弦の初期変形のフーリエ級数とも良く対応していると思います。むしろ,その様な力学的な意味を包含して,聴感上の類似度がグラフ上で距離として示される事は大いなる成果でしょう。例えば,①弦開放E音の3位置はよく弾く場所だと思いますが,これと最も近いのは,②弦を同じ3位置で弾くよりも4位置で弾く音の方が近いとか,この図を眺めているだけでも面白い事がわかります。

なお,異弦同音と弾弦位置に関して,被験者の属性によらず同じ様な重みで判断しているようだとのことです。

図3.5.2.png

図4. 15種類の音色の共通布置
3.2.2では,同じ音源に用いて,評定尺度法により12対の評価語に関して,ギター奏者15名と録音エンジニア10名のいわば音のプロ25名の聴取実験で得たデータに基づく分析を行っています。その結果を図5に示します。図4で示した15種類の共通布置結果に音色印象の軸を付加したもので,同図がさらに音のイメージに対応して来ます。

図3.6.png

図5. 15種類の音色の共通布置と音色印象
以上の結果は楽器にアントニオ・マリンを用いた結果でした。ここまででも十分有用な結果が得られていると思いますが,楽器の相違や奏者の違いに興味は広がる事になるでしょう。3.2.2では,ギター愛好者が楽器の違いをどの程度認識しているのかを簡単なアンケート調査で調べて,回答者の大多数が認識しているという結果を得て次章で取り上げる楽器差の解析の意義を担保しています。

3.3は第3章の結論です。従来ギター音の音色差を詳細に調べた例は無く,ここで得られた結果を強調しています。また次章以降で同様な調査を楽器や奏者を替えて調査すると述べています。
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コメント 2

Cecilia

弾弦位置に対応する音色表現、興味深いです。

by Cecilia (2021-05-07 08:46) 

Enrique

Ceciliaさん,
押さえる位置と弾弦位置とに対応する,物理的音響と聴感とはかなり対応していますが,それらがどのように対応しているか試聴結果から詳しく分析しています。
by Enrique (2021-05-07 09:55) 

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